日本では街角のコンビニエンスストアでたくさんのお菓子や軽食が販売されています。私の好きなポッキーとその他に一つ二つ食べ物を買い込んでから自然の中をハイキングしたり歴史ある村を散策したりするのはなかなか良いものです。問題は(お腹周りが大きくなるのもそうですが)、道沿いにゴミ箱がめったに見つからないということ。ところが、ゴミ箱が少ないのにも関わらず、そうした自然遊歩道や通りは清潔に保たれています。大都市の路上ではキャンディの包み紙ひとつ見つけるのも難しいくらいです。いったいどうしてなのでしょうか?答えは簡単です。日本人はゴミ箱が見当たらなければその包み紙をポケットかカバンに入れ、あとで捨てる。ただそれだけです。

反対に、米国やヨーロッパではポイ捨てには罰金が課せられます。にもかかわらず、高速道路、都市部、地方ではあちこちでポイ捨てが行われています。世界を見渡してみても多くの地域で都市はごみだらけ、地方では不法投棄が横行しています。

ごみは文化の「鏡」: 敬意か、恐怖心か

日本では子どもたちは幼少時からタオ=「道」を教えられます。それは宗教的な内容ではなく、単純に他者や学校・職場、環境に対する敬意を学ぶものです。4歳の子どもの幼稚園での一日は、まず自分の靴を脱ぎ教室の外にきちんと並べることから始まります。理由はもちろん、屋外の泥やホコリを勉強の場や家の中に持ち込まないためです。それから子どもたちは決められた持ち物の中からふきんを取り出し、自分の机の上を拭きます。一日が終わる時も同じように机の上を拭きます。このように、日本ではその社会文化のあらゆる部分に社会や学校・職場、環境への敬意が染み込んでいます。それは文化規範という誰もが受け入れられる行動様式となっており、それを強要するための法律や罰金はそれほど必要ありません。

法律や罰金はポイ捨ての軽減にそれなりの効果があるでしょう。しかしゼロにすることは不可能です。法律を守る理解ある市民はそれに従います。捕まったり罰金を課せられたりするのが怖いという人も後に続くでしょう。しかし、自分には関係ない、自分は捕まらない、あるいは他の手段よりは罰金を払う方がよい、などと考える人間はみな、いつまでも地球を自分たちのゴミ箱として使うことになります。法律や罰金を制定することによって、ポイ捨てをすべきかすべきでないか、関心を持つか持たないかを問うのではなく、費用対効果の論理の方が大事になってしまいます。「敬意の文化」のみがそうした習慣を本当になくすことができます。行動様式の変化は、その動機が広がり定着し、文化的DNAとなって初めて持続可能なものになるのです。

新たな声

今と比べて昔はもっとモラルがあってよかったという郷愁に満ちた考えに私は戸惑いを感じることがあります。私は米国市民です。キリスト教の理念と価値観を基盤に作られたことを誇りとする米国という国は、半世紀前に初めて、すべてのアメリカ人に平等な権利を与えるという道のりを歩み始めました。過去50年にわたる前進にも関わらず、今なお性別や人種間の不平等は目に余るものがあります。

最近次々と告発されている、行政機関を含む米国立法府、ハイテク企業、メディアやその他多くの業界におけるセクシャル・ハラスメントや性的暴力に、米国市民および世界の大半は唖然とし衝撃を受けたことでしょう。それでもこの卑劣な悪事の只中で、道徳的に破綻した権力者というプレデターに対し行動を起こせるよう、女性を守り勇気と道筋を与える法律がついに施行され、それまでの状態に風穴を開けることになったのです。

エンパワーメントか、法律か: 法律に頼らない文化を

タワージャズでは、「人材教育や職能開発におけるジェンダーの平等とマイノリティ差別廃止」を自社の社会憲章としています。私たちがしっかりと守ることでこれがタワージャズの文化になっています。例えば、イスラエルでは技術職は男女比が1対1となり、技術管理職もそれに近い数字です。他のサイトでも女性やマイノリティの人数は増え続けています。

私は思うのですが、これこそが前述のような大きなハラスメント問題がタワージャズで起こらない主な理由ではないでしょうか。法律で禁じられているからでもなく、倫理的で道徳的なリーダーシップチームのおかげでもありません(いずれも存在はしていますが)。女性が社内の様々な場所で主要な役職に就き、平等な発言権を持っているからなのです。

真の「市民権」の実現にはそこに暮らす人々全員の参画が必要です。すべてのグループに平等な機会と権利が与えられ、声をあげた時にはそれが単に聞こえてくるだけでなく、偏見を持つことなく耳を傾けてもらい、対処されるようにならなければなりません。社会の中で権利が与えられ、市民の声を適切に代表するグループであれば、その地域で不当に扱われるはずがありません。

企業を率いる機会を与えられた人間は、その企業の文化についても特別な責任を負います。つまり、法律で決められているから従うといった簡単なものから、あらゆる側面で倫理的、道徳的な行動を求めるものへと、企業文化へと昇華させることです。そうすることで、従業員が個人として成長し、目標に向かって前進する機会を与えることができます。C. S. ルイスはその著書The Abolition of Manの中で、「独裁政治ではない統治、あるいは奴隷制度ではない服従という概念には客観的価値を教義的に信じることが必要である」と述べています。私たちは客観的で、他者を受け入れるインクルーシブな価値観を大切にしなければなりません。

ジョン・F・ケネディは自身を「幻想なき理想主義者」であると言っています。平等な機会と権利が保証される市民社会という理想の実現は簡単ではありませんが、まったくの幻想でもありません。最初は高い価値観と志をもつ個人の実践から始まり、そうした人々の考えや信念が周囲に浸透していきます。あるいは、私たちそれぞれの家庭や会社から、そして、倫理的・道徳的でインクルーシブな価値システムを例外なく自らも実践しつつ組織にも実行させる企業のリーダーから広がります。擁護のしようもない行動に対してあれこれ言い訳をし、自らの品位を下げるようなことのない倫理的な市民の代表者を、私たちひとりひとりが注意深く評価し選択することから始まるのです。そうした代表者は「タオ」を忠実に守り、創造と民主主義の原則を尊重します。そして、民主主義のためには必ず野党が必要であることを理解し、決してそうした反対勢力を「敵」とみなしたりはしないでしょう。